球磨川・川辺川と共に生きる 

中川原■川と暮らし
 私は球磨川のほとりで生まれ育ちました。私の住む町は400年以上昔から川岸にそって家並みをならべており、各家の石垣の間から川へと降りる階段が作られていました。川岸には散歩道路とよばれていた二間ほどの道路があり、どこの家でも自宅からその階段を通り、その散歩道路で、洗い物をしたり、夕涼みをしたり、魚を釣ったり、泳いだりと、川から豊かな自然の恩恵を受けていました。また 夏の夜には蛍が飛び、カジカが鳴き、豊かに流れる清流は人々の生活に大きな安らぎをもたらしていました。 夏には時折洪水が発生し、濁流となった川は家の真下を音を立てて流れました。時には浸水の被害もありましたが、川のそばにすむ人々は洪水への対処を心得ており、大きな被害が発生することはまれでした。

刺し網■ダムが変えた川とのつながり
  川と川岸に住む人々との関係が著しく悪化したのは、球磨川の上流に市房ダムが建設されてからです。建設後3年目には、川の汚染が激しくなり、川での遊泳は禁止になりました。また5年後には洪水で過去に経験したことがない被害をこうむりました。
  その原因は、当時の森林の減少、上流域の連続堤防の建設等が指摘されていますが、最大の原因として人々が認識しているのは市房ダムによる過剰放水です。本来洪水による河川の水位の上昇は比較的穏やかなのですが、そのときの洪水では急激な水位の上昇で、人々は家財や商品を避難させることができず、命を守るために逃げるのが精一杯でした。 さらにその6年後の洪水では市房ダムが洪水調節不能になり、市の広報車が住民に緊急非難を呼びかけました。当時市民の半数ほどが大雨の中、安全な場所を求めて逃げる様子の異常さは、今でも鮮明に記憶しています。その後、散歩道路はつぶされ、連続堤防が敷設され、家々から階段を通って川へ降りることはできなくなりました。

手渡す会例会■川辺川ダムの中止とこれから
 さらに上流の川辺川に巨大なダム建設が計画されました。 市民の大半はこれらの経験を通して、ダムに対する恐怖や不信を持っていましたので、この追い討ちをかけるような新規のダム建設計画に対しては反対の意思を持つにいたりました。 それから47年たち、多くの住民のダム建設反対の活動が実を結び、川辺川に建設されようとした巨大なダム計画は中止になりました。
 しかし、清流球磨川はかつての豊かな清流ではなくなってきています。川がもたらしてくれた多くの恩恵を忘れて暮らすことが日常となっています。一方で川を守り、豊かな自然である清流を守ろうという動きも見られるようになりました。 川が育んでくれたこの地域を守るためには清流の存在はなくてはならないものです。これからも流域の全体で豊かで美しい川の復活、保全に努めたいと思っています。

清流球磨川・川辺川を未来に手渡す流域郡市民の会
事務局長  木本雅巳 /1951年(昭和26年)