川辺川ダム計画のきっかけ
最初に川辺川ダム建設計画が発表されたのは、1966(昭和41)年7月。
そのきっかけは直前の3年連続の球磨川の氾濫でした。
川辺川ダム計画が発表されたのは1966(昭和41)年。
川辺川ダム建設予定地である相良村藤田や五木村は、昭和30年代から電源開発等により発電ダム建設候補地として数回候補に挙がりましたが、その都度、地元の強い反対などから中止となっていました。
現在につながる川辺川ダム計画のきっかけとなったのは、1963(昭和38)~1965(昭和40)年に起きた水害でした。拡大造林が進み保水力が低くなっていた流域の山に、記録的豪雨が降ったことで、各地で土砂崩れが発生し、支流や本流が氾濫し大きな被害が起きました。
その翌年、当時の建設省は治水専用ダムとして相良ダム計画を発表。数年後に、農水省の国営川辺川土地改良事業による「かんがい」(農業用水)、電源開発株式会社による「発電」(水力発電)を目的に加えた多目的ダムに変更されました。
流域住民の強い反対運動
水没予定地である五木村の反対運動が起きたものの、やがてダム容認へ。
人吉や下流でもダムに疑問や反対の声が起きていたが、当時はまだ世論として広がることはなかった。
川辺川ダム計画では、五木村の中心地や相良村の一部の集落が水没予定地となりました。1970年代(昭和40年代半ばから50年代前半)にかけて、水没予定地の住民を中心に強い反対運動が起きました。
行政がダム受入に応じる姿勢を強くするにつれ、水没者団体の一部は容認に転じましたが、一部の団体は計画取り消しを求めて1976(昭和51)年に国を提訴。しかし、村と他の水没者団体が1981(昭和56)年に国との間で一般補償基準に妥結すると、一気に離村者が増たことで村の将来への危機感が募り、裁判をしていた水没者団体も1984(昭和59)年、国と和解を選びました。その後、村と国の間でさまざまな地域振興計画や補償の交渉が続き、五木村が最終的にダム本体工事着工に同意したのは、1996(平成8)年でした。
一方、治水の受益地とされた人吉でも、1980年代(昭和50年代半ば以降~)には市民の間や市議会において、ダム反対の声が上がっていました。しかし、ダムが治水に役立つと広く信じられていた当時、ダムに反対する商店への不買運動が起きるなど、ダム反対が世論や市民の声として浸透するには至りませんでした。
人吉・八代、県下で広がる「ダム反対」の声
1990年代半ば。ダムの「受益地」とされていた下流の市町村で
ダムに反対する市民グループや利水農家、漁民のグループが立ち上がる。
1980年代後半、人吉球磨地域の市民の間では、国鉄解体に伴い廃線の危機にあった湯前線(現「くま川鉄道」)の存続を巡って、くま川共和国という地域づくり・文化運動が起き、人吉球磨地域の資源や魅力の再評価、広範な人的ネットワークづくりにつながりました。
湯前線存続が決まった頃、毎日新聞で連載「再考 川辺川ダム」が始まりました。
当時、すでに既定路線として進みつつあった川辺川ダムに関して、治水効果、かんがい事業(利水事業)の妥当性、発電事業の採算性などについて、詳細な調査やデータに基づいて検証し、疑問を投げかけた内容でした。1996年、連載は『国が川を壊す理由ー誰のための川辺川ダムか』(福岡賢正著)として書籍でも発行されました。
連載は、それまで漠然と川辺川ダム事業に疑問を感じていた人吉球磨地域や県下の住民に、大きな衝撃を与えました。
そして1993(平成5)年、人吉市で「清流球磨川・川辺川を未来に手渡す流域郡市民の会」が発足します。
その後、熊本市の「子守唄の里・五木を育む清流川辺川を守る県民の会」、八代市の「美しい球磨川を守る市民の会」などの市民グループが相次いで生まれました。
また、同じ頃、川辺川ダムから水を引いて、下流の高原(たかんばる)台地などでかんがいを行う国営川辺川土地改良事業(利水事業とも呼ぶ)の計画変更に伴って、対象農家の同意取得手続きが行われていました。高い負担金を払ってまで事業に参加したくない、水田ではなく畑作を行っているので水はいらないという農家も数多くいましたが、農水省や自治体担当者は、大規模な国営事業を進めるため、本人の意向を無視した虚偽の同意取得手続きが一部で行われたことが明らかになりました。
これがきっかけとなり、1996(平成8)年には、国営川辺川土地改良事業の受益農家が「ダムからの水はいらない」と事業不参加の確認を求めて農水省を訴えた「川辺川利水訴訟」が提訴されました。最終的に、対象農家約4000戸のうち2000戸以上が裁判に参加し、やがて大きな動きにつながりました。
また、時を同じくして、球磨川流域のアユ漁師による「川辺川・球磨川を守る漁民有志の会」「やつしろ川漁師組合」などが生まれ、「尺鮎トラスト」「川辺川を守りたい女性たちの会」など多様なダム反対グループとネットワークが生まれました。
これらの世論の高まりを受け、2001年からは熊本県潮谷佳子知事(当時)の提案により、県がコーディネーターとなった「川辺川ダム住民討論集会」が開催され、国と市民グループが互いの主張を公開の場で討論しました。このことにより、流域住民や県民の間で川辺川ダム計画の問題点が明らかになり、さらに関心が高まることにもつながりました。
川辺川ダム計画の中止とその後
2008年に相良村・人吉市・県がダム反対を表明。
これを受けて2009年、ついに国が川辺川ダム中止を発表する。
しかし…
2001年、球磨川漁協が国の漁業補償案受入れを拒否すると、国交省がダム建設予定地の漁業権や土地所有権を強制的に取り上げるための、強制収用手続きが始まりました。
しかし、この手続きの最中の2003年、福岡高裁において川辺川利水訴訟が原告側逆転勝訴となり、判決が確定。強制収用手続きの前提となるダム基本計画の変更が余儀なくされました。国は「大きな変更に当たらない」と手続き引き延ばしを図りましたが、2005年、熊本県収用委員会は国に収用申請取り下げを勧告。国はこれを受け入れ、強制収用手続きが白紙に戻りました。2006年には、農水省がダムによるかんがい事業から撤退、電源開発(株)も発電事業から撤退しました。
2008年、相良村長と人吉市長が相次いで、初めてダム反対を表明。これを受け、蒲島県知事は「球磨川は県民の宝」として、歴代知事で初めて川辺川ダム反対を表明しました。地元知事の反対を受けて、翌年2009年9月、政府は川辺川ダム中止を発表し、一旦ダム計画は白紙に戻りました。
残された課題は、「ダムによらない治水」をどう進めるかと、長くダム計画で翻弄された水没予定地の地域振興でした。水没予定地の地域振興は、県が主導してさまざまなソフト・ハード整備が進みましたが、「ダムによらない治水」を検討する場は、ダム案に固執する国や、優良農地を遊水地として提供したくない自治体の思いなどが交錯して議論が停滞。2009年に検討する場が始まって以降、10年以上に渡って具体的な対策がほとんど取られないままでした。また、川辺川ダム建設を前提とした嵩上げなど、従来の治水対策も改修されることなく、放置されました。
球磨川豪雨災害とダム復活
抜本的な「ダムによらない治水」に取り組まないまま迎えた、2020年7月4日。
未明から降り続いた記録的豪雨により球磨川が氾濫。
県、国はすぐさま川辺川ダムの「流水型ダム」としての復活を決めた。
そのような中、2020(令和2)年7月4日、球磨川流域を記録的豪雨が襲いました。
通常の7月1ヶ月分の降雨が12~24時間で観測されるなど、線状降水帯が球磨川中流域や中流に注ぐ支流沿いに長時間停滞したことで、未明から早朝にかけて大量の土砂や流木を含む洪水が発生しました。
同年11月、豪雨災害検証もそこそこに、蒲島県知事はダム反対表明を撤回。「命も清流も守る唯一の選択肢」として、流水型ダム(穴あきダム)として川辺川ダム復活を宣言。これを受ける形で、国交省は従来の建設予定地に、従来と同規模の川辺川ダムを流水型ダムとして再び計画し、現在進めている状況です。
これに対し、被災者を含む流域住民の間からは、強い反対の声が上がっています。豪雨災害検証が当初から「ダムありき」で進み、検証や分析、荒廃した山林の影響や対策の検討が不十分である点、ダムによる治水効果への疑問、住民説明や住民参加の機会が一切設けられていない点、環境影響の甚大さなどがその主な理由です。